『世界無名戦士之墓』を訪ねてみた。

 その場所は埼玉県入間郡越生町(おごせまち)にありま

す。小高い場所にあるこの施設は、真っ白な建物として、

町の下の方からすぐに見えるハイインパクトな建物です。

 

 越生町役場の駐車場に車を置かせてもらい、長靴に大きな雨傘☔スタイルで登っていきました。

駐車場から700mほどの道を登ります。

クネクネとした登山道です。

今の季節、地面から飛び抜けて咲いているのは・・彼岸花だけでした。

春には桜の木🌸が道を覆うように咲くようです。

f:id:masatdm1951:20160923232309j:plain

 

 私以外、登る人も無く・・下る人も無く・・

傘に落ちる雨音を聴きながら、果てしなく続く階段を登り

続けました💦 (鍛えた足のお陰で難無く(^^)v)

f:id:masatdm1951:20160923232456j:plain

 

越生の町並みがよく見えます!

f:id:masatdm1951:20160923232740j:plain

 

今の階段を登り終えると、いよいよ「霊廟」までの立派な

階段が見えてきます。

f:id:masatdm1951:20160923232754j:plain

 

私は今、ここにいます!(現在地表示の場所)

f:id:masatdm1951:20160923233955j:plain

 

階段は二種類(大きな階段と小さな階段)

f:id:masatdm1951:20160923232812j:plain

 

はい!大きな階段の半分の高さ(倍の数)なのです!

これで子供や足が上がりにくい高齢者が、登りやすくなる

のでしょう。

(2倍の歩数が求められますけどね(^_-)-☆)

f:id:masatdm1951:20160923232821j:plain

 

霊廟の場所まで行くと景色の見え方も大きく違ってきま

す。今日は悪天候のために、既に下界に雲が立ち込めて

ます。

f:id:masatdm1951:20160923232949j:plain

 

屋上にも展望スペースがありました。

天気が良い時にはスカイツリーも難無く見られるようです。

f:id:masatdm1951:20160923233006j:plain

 

鳥瞰図の拡大写真です😊

f:id:masatdm1951:20160923233017j:plain

 霊廟の中は意外にもスッキリしていて、宗教じみた

祀られ方ではなく、線香臭くもなくて・・・亡くなられた

方々の気持ちや、当時の背景などを真摯に考える事のできる静かな静かな空間でした。

 

階段の横に季節外れの白いツツジが咲こうとしていました。

f:id:masatdm1951:20160923233050j:plain

 

階段の反対側にも、季節外れのツツジが咲いていました。

揃いましたね(^^)v

f:id:masatdm1951:20160923233056j:plain

 

雨に濡れて黒く見えるサクラの根本には、白い彼岸花が咲いていました。

f:id:masatdm1951:20160923233101j:plain

 

黄色い彼岸花も、同じ場所に咲いていました。

f:id:masatdm1951:20160923233105j:plain

 

 霊魂の存在を信じていない私ですので、この場所は少しも「近寄りにくい」とか、

不気味な?雰囲気なので行きたくない!などという考えの

対局にいます。 

むしろ、本当に生死を掛けて家族や子孫を守るために、

自分の「将来の幸」を犠牲にして死んでいった人たちの

熱い思い」に頭が下がる思いなのです。

 

当時は生きていくだけでも大変で、自分の命、家族の命、

みんなの命について考えながらも・・時代の戦いに呑まれ

ていった人々への想いを「神様」に祈らずにはいられませ

んでした。

 

 こうした場所を「心霊スポット」と称して、心霊現象やら幽霊現象などを好んで扱う人がいるようです。

でも、それは祀られている人々を「辱める」行為だと思います。

そもそも死んだ人には意識も記憶も何も無いのです。

それに、亡くなった人たちが仮に人間以上の意識レベルの

「霊者」になっているとしたら・・・・・・

生きている人を怖がらせたり、驚かせたりするような

人間以下の「愚かな行動」を果たして取るでしょう

か?  

亡くなられた貴重な命の存在を、「お化けか?幽霊か?」

というような「蔑んだ」扱いをする発想自体、死者に対して失礼なことなのです。

 

 そんなことを、誰もいない霊廟の側で考えていました。

私もいつ死ぬか分かりません。

死んでしまったら・・・家族を守る事も、愛することも出来ません。(全てが無に。)

だからこそ!

生きている今の内に、出来ることを精一杯しなくっちゃ!と思うわけです。

 

 時にはこうして「死」を客観視出来る場所に、たった一人で行くことには価値があります! そうすれば、いま生きていることの真の価値にも気づくはず!